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銀杏BOYZが新アルバムを出した。約9年ぶりのアルバムなのだという。
タイトルは「光の中に立っていてね」と「BEACH」。前回の「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と「DOOR」と同じように2枚同時リリースとなった。
Amazonで注文して、しばらく聞いて、なんだかいろいろ思う所があったので、せっかくブログという自分の思いがダラダラ発信できる場があるので思う存分語ってみようと思う。
今回のエントリーは僕の思いの掃き溜めみたいになると思うので苦手なかたはブラウザそっ閉じ推奨。たぶん長くなるよ。
青春時代にグミ・チョコレート・パインを1回読むってことのほうが僕にとっては価値があるのさ
そうやって叫んでいた峯田も気づけば、青春時代なんてとうにほったらかして、あっという間に自分が「30代以上の人間なんて信じない」って言っていた年齢になってしまった。
それでもいまだに峯田は絶大に支持を誇っていて、銀杏BOYZ好きっていう中高生も多いみたいで、彼が叫んでいたグミ・チョコレート・パインがいったいなんなのかわかんない人もいるんじゃなかろうかと思う。
五千四百七十八回。 これは、大橋賢三が生まれてから十七年間に行なった、ある行為の数である。
ある行為とは、俗にマスターベーション、訳すなら自慰、つまりオナニーのことである。
ーグミ・チョコレート・パイン グミ編
冒頭このように始まる大槻ケンヂによる、半自伝的小説。それがグミ・チョコレート・パインだ。
つまり峯田はこの小説を青春時代に読むことが簡単にやっちまう30回のセックスより価値があるのだという。いったいどんな小説なんだ、グミ・チョコレート・パイン。
かくいう僕も、例に漏れず青春時代にグミ・チョコレート・パインに出会ったひとりだったりする。
青春時代なんてのがいつの時代かっていうかよくわからないけれど、僕がこの小説に出会ったのはたしか高校生のころ。学校の二階にあった図書室。
そのころはまだまだネットなんて無くて、入ってくる情報といったらテレビがメインだった。テレビで映しだされる世界は華やかで、今で言いうリア充や意識高い系じゃないと教室の隅においやられるような脅迫観念を僕はいつもかかえていた。その頃の僕はといえばもともとそんなに社交性も高いわけでもなく、思春期特有のコンプレックスと、それでも自分は何か特別な人間になれるんだという、変な選民思想の中、無理にも矢理にも意識高い系の輪の中に馴染めないまま入り込んで「こいつらとは僕は違うのだ」などと、なんの根拠もないまま思っているという典型的な高二病を患っていた。それ以前にしっかり中二病にも羅患し、ようやく発作が治まってきた頃の話である。
それでも、それでもやっぱり息苦しくて、僕は日々を悶々と過ごしていた。今思い返せばあまりに考え過ぎで、そのころの自分に出会えるなら「やあ、君、そんなに思いつめることはないよ、君が思っているほど、周りは君のことなんてこれっぽっちも気にしていないんだから」などと教えてやるのだけど、当時そんなことを言ってくれる人もおらず、教室の隅に追いやられる前に逃げるように駆け込んだのが校舎の二階の隅にあった図書室だ。
図書室で出会ったグミ・チョコレート・パイン
よくもまあこんな本があったものだなあと、その頃の司書さんには感謝を述べたいのだけど、幸運にも僕はその大槻ケンヂが記した「グミ・チョコレート・パイン」と出会うことができた。江口寿史の描いたエロチックな表紙と冒頭の一文に引き込まれ僕はその小説を読み進めた。
最初はコミカルでライトな小説だと思いサクサクとページをめくっていた。大槻ケンヂが書く文章はとても読みやすい。しかして、その主人公である大橋賢三の抱える日々の悩みや思い、恋愛観、性欲、衝動、自己嫌悪、出口を見つけることができないままドロドロと渦巻く仄暗い感情の数々があまりにも当時の自分と重なってしまった。
このグミ・チョコレート・パインとは僕のことを書いている小説だ。そのころの僕は本気で思っていた。もしかしたら、同様なことを思っているクラスメイトを探せばいたのかもしれないが、あの頃、そんなふうに弱音を吐くのは最大のタブーだった。だれに吐露するわけでもない共通の悩みを、この小説の主人公が抱えていて、そして、彼はそれにむかって、様々な挫折を繰り返しながら向かっていったのだ。
周りのやつとは違う、自分にはなにかできるはずだ
そうやって大橋賢三はバンドに打ち込むことになる。奇しくも当時の自分も楽器を手にしていて、下手くそな演奏をしながら、それでもきっと何か特別な人間になれるのだという幻想をいだいていた。なにものかになれるのは、他人よりもはるかに多くの努力を積み重ねる必要があるのに、それすら放棄してただ、ただ自分の世界が全てたと思っていた。それでも、自分では打開できない現状を少しづつこじ開けていく物語の主人公に自分の姿を投影していた。
物語は、グミ編、チョコ編と急展開をつげていく、僕は一心不乱にページをめくった。そして、最終章であるパイン編に突入し、ハッピーエンドを迎えるはずだった。
書かれることのなかった「パイン編」
そして、はたと気づく。存在しないパイン編。
その続編を目にするまでには約8年の歳月を待つことになる。
高校の頃の僕からすれば、自分を重ねあわせた主人公がどうなったかもわからないまま尻切れトンボのように突然消えてなくなってしまい、強烈な喪失感を感じたことをはっきり覚えている。
しかし、それでよかったのだ。
自分を重ねあわせた主人公は結末を迎えることはない。自分の青春時代がつまったかのような「グミ・チョコレート・パイン」は終わることはない。つまり、自分の青春時代もいつまでも続いているのだ、と僕は認識していた。
大槻ケンヂが教えてくれたこと
僕は大槻ケンヂの大ファンである。なので、誤解をおそれず言うのだけど、そして、僕がいうのもなんだけど、彼はほんとに「ダメ人間」だと思う。UFOにはまってちょっとおかしくなったり、やりきれぬ思いを爆発させるために白塗りで奇声をあげるバンドを作ったり、彼の出す曲や書籍を見る度「ダメだなあ」と思う。
しかし、それでも彼は「ダメだ」ということを肯定してくれる。僕も数多いるダメな奴の一人だ。「踊るダメ人間」や「高木ブー伝説」などの彼の代表作はそんな物悲しいダメな僕らをせせら笑いながら、それでも間違っていないのだと救ってくれる。
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踊るダメ人間
いまでこそニートだ引きこもりだオタクだなどと、市民権を得ているようだが、あの頃はそんな人間たちは存在しない透明人間のように扱われていたように記憶している。いじられるならまだいい、けれど、透明人間は辛い。そんな透明人間になりたくなくて必死だった僕は、大槻ケンヂの言葉や歌に救われた。
思春期特有のコンプレックスの塊に押しつぶされそうな僕をその重荷から解き放ってくれた。自分がダメだということに向き合い、それでも自分を肯定してやる。世界中の誰もが敵でも自分自身は最後まで自分の味方でいてやらなくてはいけない。そんなことを教えてくれたのが大槻ケンヂだったし、そういうことを教えてくれたのは彼だけだった。
なんだかんだで大人になっていく
そうやって僕らはなんだかんだで大人になっていく。大人になっていちいち傷ついていたのではやってられなくなるので、いろんなことに折り合いをつけていくようになる。しょうがない、と言う大人がキライだったけど、そうやって折り合いをつけないと大人の世界はやってられないほどいろんな大変なことばかりだった。
いつのまにか大学を卒業し、社会に出て行った僕は、ぬるま湯のようなポカポカした学生時代を懐かしく思いながら必死で大人の世界で生きていた。初めての経験ばかりで高校の頃にいだいていたようなドロドロとした感情はいつの間にか消えていっていた。
唐突に続編が発表されたグミ・チョコレート・パイン「パイン編」
そうやってどうにかこうにか大人の世界への折り合いの付け方をなんとなくわかりかけてきた頃、突然として、パイン編が大槻ケンヂの手によって書かれた。忘れていた物語の終末を見届けるために僕はそのページを開いた。
その物語はグミ編やチョコ編とは毛色の違ったものであった。長い長い歳月を経て発行されたその小説なので無理もないかもしれない。超大作と息巻いていた作品で三部作の構想をしていたのに三島由紀夫の仮面の告白を読んだら自分の言いたかったことが全て書かれていて呆然自失とし、執筆する意欲を失ったにもかかわらずオーケンはよく頑張って最後まで書ききったと思う。おそらく最初の構想とは違うストーリーとなったのだろう。
高校の頃に置いてきたその作品を読み終えることで、僕は強烈に青春時代の終わりを意識した。
意識することはなかったが、8年間、僕はその作品を待ち続けることで、いまだ青春時代の中にいたのだ。終わることのない物語のお陰でその日まで僕はグミ・チョコレート・パインの主人公や登場人物たちと共にいることができた。
しかし、その終わらないはずだった物語を読み終えてしまったわけだ。
大人になっても青春時代はいつまでも続くのだと思っていた僕に、その終わりを知らせてくれた作品であった。グミ・チョコレート・パインのパイン編を読了したその日、僕の青春時代は終わりを告げた。
「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と「DOOR」
青春時代にグミ・チョコレート・パインを1回読むってことのほうが僕にとっては価値があるのさ
そう言ってマイクを握っていた峯田も、僕と同世代であることから、きっと同じような青春時代をおくっていたのかな。なあんて、スピーカーの向こう側のロックスターに既視感を抱いていた20代の頃の僕。
「BOYZ&GIRLS」「さくらの唄」とわずか2枚のアルバムと幾ばくかのシングル曲をリリースして突如解散したGOING STEADYが銀杏BOYZとして再結成したのは僕が社会に出たばかりのころであった。
当時付き合っていた女の子は遠い所に住んでいて。僕は彼女に会うために夜の道を車でぶっ飛ばしていた。その時かかっていたのはいつも銀杏BOYZだった。
10代という多感な時期にどうにかこうにか折り合いを付け終えた頃。子供の頃に見ていた大人はすごくちゃんと「大人」をやっていたのに、いざ自分がそうなてみるとまったくそんなちゃんとした「大人」になれていないことに気づく。
こんなんでいいのかな、なんて思っていた僕の前でCDの向こうの峯田はただ、叫び、歌い、無茶苦茶やっていた。同い年くらいの「いい大人」がそうやって無茶苦茶やってくれているんで、「ああ、僕もこのままでいいんだな。」なんて感じていた。
「貴方はきっと幸せになれるわ、だって私を幸せにさせてくれたもの。」
すごく怖い夢にうなされ飛び起きた僕をみて、嬉しそうに笑ってくれた女の子。君との日常がすごく幸せで、こんな幸せがいつまでも続くんだなと思っていた。
そんななんてことのない一日と、銀杏BOYZのCDさえあったら、あとはなんにもいらなかった。
ようやく飛び出した大人の世界っていうやつは、理不尽で嫌なことばっかりで、まだまだ大人になりきれていない僕はまるでプールの水に顔を押し付けられたように、大人の世界と子供の世界の狭間でアップアップしていた。そんなやりきれない毎日だったけど、くだらないことにも笑ってくれる彼女ががいてくれたおかげでなんとかやってこれていた。
そんな毎日がいつまでも続かないなんてこと、あの頃の僕は知らなかった。ある夜に鳴り響いた携帯の着信音。唐突に切りだされる別れ。
顔をプールに押し付けられる。
水中にドボン、だ。
音楽はいつだって僕を救ってくれる
深く、深く、沈んでいく。仄暗い水の底に。
やりきれなくて、水の中でうずくまっていた僕を救ってくれたのは、銀杏BOYZだった。
いつだって。
音楽はいつだって僕を救ってくれる。
峯田の歌はいつだって愛の歌だ、愛の讃歌だ。どんなに報われなくても、どんなに情けなくっても。いつまでもいつまでも人を愛し続ける優しい、優しい。僕は何度も何度も繰り返し大好きな2枚のCDを回し続けた。「君と僕の第三次世界対戦的恋愛革命」「DOOR」。ほんとにCDが擦り切れるんじゃないかと思うほど。グルグルグルグル。車の中で、真っ暗な部屋の中で、街を歩くiPodの中で、グルグルグルグルと。
いろんな人に助けられ、銀杏BOYZの音楽に励まされ、ようやく水中から顔を出し、大きく息を吸い込んだ。びしょ濡れになりながらも這い出し少しづつだけど歩き出すことができた。溜息をタバコの煙と一緒に吐き出し、やりきれない思いを酒と一緒に飲み込んだ。
そして9年の歳月が流れる「光の中に立っていてね」と「BEACH」
銀杏BOYZのデビューアルバムである「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と「DOOR」以降、銀杏BOYZはほとんど音源を出していない。
それでも僕は相変わらずその2枚のアルバムを繰り返しリピートし続けていた。9年の歳月は水際でチャプチャプやっていたガキをそれなりの大人にするには充分な時間だった。相変わらず世界は理不尽だったし、ぶん殴ってやりたいくらい嫌な奴も両手じゃ数えきれないくらい居たのだけど、それなりにそういった世界とうまく付き合っていく術を覚えていったし、愛想笑いもだいぶん上手になった。
それでもやっぱり小さい頃見ていた「大人」にはなりきれていない。そんなふうに思っていたころ。
そして、その日は唐突に訪れる
唐突にYouTube上にアップされた東京終曲、次いで発表される2枚のアルバム「光の中に立っていてね」と「BEACH」。
直後、我孫子真哉とチン仲村の脱退、追うように村井守も脱退。
待望していた、ニューアルバムはあってほしく無いニュースともにやってきた。銀杏BOYZは峯田ひとりになったわけだ。
9年間の沈黙を破るそのニューアルバム「光の中に立っていてね」 。ノイズまみれで始まる「17歳」この曲だけじゃない、アルバム全編にわたってノイズが多様されているのが印象的だ。打ち込みの曲もある。今までの銀杏BOYZとは毛色の違うそのアルバムには賛否があるかもしれない。
ただ、ノイズだとか打ち込みだとか、そんなのは関係ない。ああ、彼らはもがいていたのだ。僕はそう思った。僕を仄暗い水の底から引き上げてくれた彼らは、そして同じようにこの9年間という長い間、もがき、足掻いていたのだ。明るい空を暗い水の底から見上げ、必死で。そんな様子がそのノイズまみれの曲や今までとまったく印象の変わる打ち込みのアレンジが加えられた曲の音符の隙間から見えてきて、いつの間にか涙が止まらなくなっていた。そして、もがいた末に再生される最後の曲「僕たちは世界を変えることができない」
諦めのように見えるこのタイトルは、しかしそんなもんじゃないんだ、と僕は思う。僕たちは世界を変えることができない。それは享受することなのだと。足掻き、もがいていた彼らは、世界を変えることができないと歌うことで、あらたなスタートラインに立つことができたんじゃだろうか。それは、諦めでなく、決意。
CDの針が止まった時、僕は20代との別れを迎えた
9年の歳月の後に発表された今作を聞き終え、そして、彼らの新しい第一歩を見せてもらい、唐突に僕は20代という時代との別れを感じた。それは、まるでグミチョコレートパインのパイン編を見終わった時に感じたそれとそっくりな感覚であった。
グルグルグルグルと回るCDと共に、僕の20代はあった。世界を変えられると思っていたその頃。だがしかし、やはり僕も世界を変えられることはできない。深い水の底から抜け出し、見つけた新しいスタートラインがどんなものになるかは分からないけど。
いつまでも続くと思っていた日々は唐突に別れを告げる。それでも今の僕は水中にドボン、なんてことは無くなった。世界は変えられないけど、ちっぽけな自分くらいは変えることができる。世界中が敵になっても最後まで自分を信じてやれるのは自分だ。大槻ケンヂの「グミチョコレートパイン」で青春時代に区切りをつけ、そして今回銀杏BOYZの「光の中に立っていてね」でようやく僕は20代と別れを告げた。そして、新しい世界に向かう僕に、峯田はまたもこう歌ってくれるのだ。
”ハロー、今、君に素晴らしい世界がみえますか?”
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